彼女の福音
弐拾肆 ― 誰カ僕ノ名前ヲ思イ出シテヨ ―
「はい、陽平。あーん」
「……あーん」
しゃく。
フォークの先にあったウサギさんリンゴが、咀嚼される。
「おいしい?」
「……うん。おいしいよ」
「よかった。えへへ」
あたしは陽平の傍でほほ笑んだ。
「ようやくできたね、あーん」
「……あのね、杏」
あたしの笑顔とは対照的な、陽平の苦りきった顔。
「この状態で、あーん以外の如何なる方法で物を食べればいいわけ?」
この状態、とは病院のベッドにて全身包帯、四肢石膏固めで点滴中、でも傍にはきれいな彼女、という状態のことを指す。
「そうねぇ、パン食い競争の要領で、とか」
「僕、動かなきゃいけませんよねぇっ!そしたら僕の骨折ひどくなりますよねぇっ!!」
「いいじゃないそれぐらい」
「よくないよっ……いつつつつつつつつつつつ」
ガバッと上半身を動かそうとして、陽平は顔をしかめながらベッドに沈み込んだ。
「まぁ、でも一人じゃない、ってのはありがたいか」
「でしょでしょ。あたしが付いてるのよ、感謝しなさいよね」
「加害者の当の本人様一名が何言いますかねっ!!」
くわっ、と顔を引きつらせる陽平。
「にしてもよかったわよねぇ、複雑骨折なんて。あんたてっきり単細胞生物だから、ひどくても単純骨折にしかならないんじゃないかって心配したのよ」
「心配するところが違うよっ!複雑骨折なんて全然うれしくないよっ!つーか僕は単細胞生物じゃないよ……あだだだだだだだだだ」
「そういう学習能力のないところが、陽平の陽平たる所以よね」
「……もう突っ込む気力もないよ」
死んだ眼をして陽平がため息をついたとき、あたしの携帯が振動した。
「ちょっと待ってね……もしもし?」
『もしもし杏ちゃん?今どこ?』
「あ、ママ?今ちょっと病院」
『あらあら、もう産婦人科のお世話になってるの?』
後ろでパパの「ぬわぁんだとぉおおおおお!」という声が聞こえた。
「違うわよ。陽平がちょっとすっ転んで骨折しただけ」
『あらあら、大変ね、陽平さんも。お大事にって伝えておいて』
後ろでパパの「何、あのヒトモドキが入院だと?でかしたでかしたっ!」とはしゃぐ声が聞こえた。親馬鹿もここまで来るとねぇ……
『それにしても変よね、陽平さんぐらいなら、転んで骨折なんてないはずだけど』
「あ、ごめんママ、病院じゃ携帯禁止だったわ」
『ちょっと杏ちゃん?どういうこと?杏ちゃん?』
「じゃ〜ね〜♪」
そう誤魔化すと、あたしは携帯を切り、そしてこちらをジト目で見ている陽平に笑いかけた。
「困っちゃうわよね〜、親って。あはははは」
「そうだよね。よくわからない理由で彼氏を病院送りにする彼女ほど困るよね」
「ん?何か言った?」
「何も言ってません言ってませんともですからこの私めを憐れんでその辞書をおしまいください杏様」
「うん、よろしい」
むかしむかし、と言っても昨日のことなんだけど、あるところに一人のか弱くてかわいい女性がおりました。
その女性は聡明だったので、新聞やニュースは欠かさず見て情報収集に励みました。そんなある日、ニュースで女性の住んでいるアパートの付近で、痴漢がよく現れるという情報が流れました。か弱い女性は、聡明であるとともにとても美しかったので、気をつけなければ、と心に決めました。
その夜、その女性はふとしたことで仕事の帰りが遅くなってしまいました。冬の夜はもうすでに暗くて、点滅する街灯は女性をとても不安にさせました。
「ああ、私には付き合っている男性がいるのに、襲われたりしたらどうしましょう?」
女性は時たま背後を振り返りながら帰路を急ぎましたが、そんな彼女に忍び寄る怪しい影。女性が気付いた時にはもう遅く、その影は
「ひゃほぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぅっ!」
奇声を上げて飛びかかってきました。
「来たわねこんのド変態がぁぁあああああああああああああああああああああああっ!!」
女性は果敢に自分の身を守りました。飛びかかってきたケダモノを蹴り飛ばしました。カバンの中には辞書があったので、それを怪しい影に投げつけました。しかしそれでもそれはまだ動きます。女性はカバンをまた探りました。今度は英和辞典が出てきました。日頃の行いのおかげでしょう。女性はそれを魔物に投げつけました。しかしそれでもそいつは動いています。ええいとっとと死んじゃえ。女性は再度カバンに手を突っ込みました。今度は漢字辞典が出てきました。神は美人を好むのです。女性がそれを異次元生物に投げつけると、それはようやく沈黙しました。正義は勝ったのです。
しかし、何という運命の悪戯でしょう。
「って、陽平?」
そう、今まで女性が戦っていたのは、魔物に魅入られてとりつかれた意中の人だったのです。何たる悲劇!全米が泣いた!献身的な女性は、救急車がくるまでの間、男性の傍に寄り添いましたとさ。
「ぐす……いい話よね……」
「全然よくないよっ!だいたい、何で僕の扱いがどんどんどんどんひどくなっていくわけ?!」
「だって、実際にそう見えたし。テレビ放送する際は、モザイクは必要不可欠だったわよね」
「誰のせいだよっ!」
「だいたいさ、あんた、夜道を急ぐ女性に飛びつくってどういう了見よ?」
「い、いや、そりゃまぁ、杏を少しびっくりさせたかったから……ほら、運よくこっちに来れたからさ……」
「まったく、馬鹿よね、あんたって」
ほっといてよ、と陽平がそっぽを向く。そんな陽平の傍にあたしは腰かけると、顔を近づけていった。
「ほんと、馬鹿なんだから」
「杏……ちょっと、ねぇ……」
「えへへ……」
そろりそろりと距離を狭めていく。陽平は最初はたじたじと辺りを見ていたけど、結局は観念したのか目を閉じて、そして
「はーい春原君、夕飯です」
ぎぎぎ、と首を回すと、にこにこと確信犯的な笑顔で立つ「愛しの」妹が目に映った。
「椋、あんた今わざときたでしょ」
「さあ?私、お姉ちゃんより子供だからわかんな〜い」
「あんたねぇ……」
「あれ、春原君。今朝言いましたよね、絶対安静にしてなきゃだめだって?おっかしいなぁ、お薬の量、少なすぎたかな」
「あ、あの椋ちゃん、その薬で僕、どうなるわけ?」
「ん?ああ、あまり気にしないほうがいいですよ♪というわけで睡眠薬を増量、と」
さらっと怖いことを言ってのける椋。この子、本当にあの椋なの?
「というわけで、ちゃんと食べてくださいね。それにしても春原君、入院多いですね。もうそろそろここの入院食にも馴染んできましたか?」
「……まぁ、隠し味があと一歩のところで判明できる、かな?」
ちなみにそのうち、ほとんどの原因があたしらしい。い、いいのよっ!これも愛の形の一つよ、絶対!ねぇ、そうだと言って、智代っ!
「うん、愛だっ!」
「おわ、どうした智代?ははぁ、さては今夜は二人でらぶらぶタイムに移行する話か。よっしゃ、まかせとけ」
「え?いや、そうじゃなくて……って、朋也っその手のわきわきはっ!!」
「もっきゅもっきゅ〜」
「じゃあ、三十分後にお皿を取りに来ますから。お残ししたら……ふふふ、わかりますよね?」
「ひぃいいっ!」
「ではごゆっくり〜」
謎の笑みを残して、椋は病室を出て行った。
「で、残したらどうなるのよ?」
「……椋ちゃんが怒って……」
「怒って?」
しかしそこで陽平は黙り込んでしまった。ふと見ると、小刻みに石膏で固めた腕がカタカタと音を立てながら振動している。
「はぁ……わかったわだいたい。んじゃ、陽平」
「は、はひっ!」
「はい、あーん」
もうそろそろお暇しようかなぁ、と思っていると、耳慣れた電子音が聞こえてきた。
「あ、陽平、携帯よ」
「あ、やっべ出なきゃ出なきゃいだだだだだだだだだだだだだ」
ねぇ陽平、もうそろそろ体を動かそうとすると痛いってこと、覚えましょうよね?
「あたしが出るわよ」
「え?」
「何?何かまずいことでもあるの?あんた、まさかじゃないけど浮気してるんじゃないでしょうね?」
「してないしてないしてませんってば!そ、それより早く出ないと」
あたしはため息をつくと、陽平の携帯の通話ボタンを押した。
「はいもしもし」
『ん?あら陽介、あんた声変わったんじゃないの?』
……
……
「ねぇ陽平?」
「ん?どしたの?」
「陽介って誰?」
そう聞くと、陽平はテンションが急降下爆撃をしたかのようなため息をついた。
「おふくろだね、そりゃ」
「え?お義母さま?もしもし?」
『こら陽介、あんた、女の子にもてないからって、勝手に男捨ててるんじゃないよ』
「あ、あの、春原陽平さんのお母様でいらっしゃいますか?」
『ん?陽介、あんた何とぼけてるんだい?あんた、母さんの声も忘れちまったのかい』
「いえ、その、あたし藤林杏って言います。その……息子さんとお付き合いさせていただいてる者です」
沈黙。そして電話口から変な音が聞こえてきた。
『陽介……あんた……母さんに下手なウソをついてまで、一人身じゃないって言いたいのかい?母さん、あんたをそんな子に育てた覚えはないよ……』
どうやらすすり泣きをされているようだった。
「あ、あの、本当です。陽平さん、今入院中なんで、一緒にいるんですけど」
『あらま』
あっけらかん、とした声が返ってくる。ああ、この人本当に陽平のお母さんだわ。
『はぁ、アパートにいないと思ったら、入院ねぇ……まったく、あの馬鹿息子は。ねぇ藤林さん、後生だけど、少しの間待っててもらえないですかね?今からそちらに行きますんで』
あたしが病院の住所を教えると、春原さんは「そいじゃ」と言って電話を切った。
「何だって?」
「ん。あんたのアパートに来たけど誰もいなかったんで、こっちに来るって」
「来るの?うっへぇ」
心底嫌そうな顔をする陽平。
「あんた、親御さんと仲悪かったっけ?」
「別にそんなんじゃないけどさ……ま、会ってみりゃわかるよ」
陽平はそう言って肩をすくめようとして
「いづづづづづづづづづづづづづづ」
「あんた、真性の馬鹿よね」
陽平のお母さんは、何というか、陽平のお母さんだった。
春原家の女性と言ったら芽衣ちゃんしか思い浮かばなかったので、きっとお母さんもしっかりした人なんじゃないかと思っていたけど、どうしてどうして結構中々興味深いと言うべき人だった。
「はぁ、陽介、あんたやっぱり入院してたのかい」
「さっきから気になってたんだけど……」
陽平がこめかみをひくひくさせながら言った。
「僕の名前は陽平だってばっ!」
「いちいち怒鳴らなくてもわかってるよ、陽一」
「また名前違ってるよっ!だいたいさ、何をしに来たわけ?」
ご機嫌斜めな口調で陽平が言うと、何言ってんだか、という顔をお母さんがした。
「あんた、母さんの留守電メッセージ聞いてないのかい?」
「へ?何のこと?」
「はぁ……全く、あんたって子はどうして芽衣みたいにしっかりできないんだろうね?」
「母さんに似ちゃったからでしょ」
はぁ、と春原母子が同時にため息をついた。
「……で、どうしてきたの?」
「陽平太、あんた今何歳?」
「は?二十六だけど?……って、太は余計だよっ!」
「二十六だったら、あんた、母さんと父さんはもう新婚さんだったんだよ。だからね、母さんはね、どうせ未だに一人身の陽左衛門のことだし、お見合いの話の一つでもって思ってきたんだよ」
「陽左衛門って、いつの人の話だよっ!だいたい、お見合いならしないって」
ちらり、と陽平があたしを見る。あ、なんか嬉しいかも。
「何でよ」
「だってほら、僕にはその……杏がいるし……」
陽平のお母さんがあたしをまじまじと見た。あたしは真っ赤になって「よ、よろしくお願いしますっ!」と頭を下げた。
そして
「ぶわーっはっはっはっはっは!」
何故か笑われた。
「陽之丞、あんた、母さんを担ぐにしたって、こんな、こんな別嬪さんを……ぷくくーくっくっくっく……ないってないって、いくらなんでもモデルさんと付き合ってるって、陽之丞も妄想が激しくなったね」
どうやら陽平は江戸時代から進化を止めたらしい。
「だから僕の名前は陽平だってばっ!!それに嘘じゃなくて僕と杏は付き合ってるんだってば」
ひとしきり笑い転げた後、陽平のお母さんはどうやらこれがドッキリとかそういうのじゃないと理解した途端、ふっと笑顔を吹き消した。
「陽三郎、あんた、本当にこの子と付き合ってるのかい?」
陽一郎と陽次郎がどうなったのか気になる。
「……もう名前なんてどうでもよくなってきたよ」
「だから、この子と付き合ってるのかい?本当に?」
「だからそうだって」
もういい加減疲れたよ、とでも言いたげに陽平が答えると、お母さんはあたしをまじまじと見て、そしてため息をつき、両手に肩を置いた。
「あんたも、大変だねぇ」
「え、あ、ええ、まぁ」
「あたしだって女だ。嫁ぐってのがどういうことかぐらい、わかってるつもりだよ」
「あ、あの、あたし達、まだ結婚とかは……」
「ねぇ藤林さん、聞かせて頂戴」
そこでお母さんは一旦言葉を切ると、今度は震え声で言った。
「いったい、あんた、この馬鹿息子にどんな弱みを握られたんだい?」
……は?
「ちょっと、何言ってんだよっ!」
「黙ってなさい陽作!あんたと話してるんじゃないよっ!で、藤林さん、あたしになら何でも言っていいからね。さぁ話してごらん。この馬鹿は、あんたにどんな鬼畜な手を使って近寄ったんだい」
「そう、ですね……強いて言えば」
「強いて言えば?」
「言うことあるんだ?!」
「強いて言えばですよ、息子さんに惚れちゃいました」
テヘ☆てな感じで笑うと、お母さんはため息をついて眦を拭いた。
「お、おいおいどうしたんだよ母さん、ははは、何、僕が一人じゃないって知って安心しちゃった?」
「陽、あたしはね……母さんはね……」
「字が足りないって」
きっと陽平を睨むと、お母さんは泣き崩れた。
「人に言えないくらい汚い手を使って女の子をいいようにしているあんたが情けないよっ!」
「そっち?!」
「これじゃあ……これじゃあ天国の父さんに何ていえばいいんだろうね?」
え……
知らなかった。陽平が、そして芽衣ちゃんが母子家庭で育っただなんて、全然知らなかった。
もしかすると、陽平が少し道を踏み外して不良扱いされたのも、少しはそういう家庭の事情があったんじゃないだろうか。だとすると、あたしは結構ひどいことをずけずけと高校時代に言っていたんじゃないだろうか。
ごめんね、陽平。
「いや、父さん元気に生きてるし!また勝手に殺してるし!」
「あらま。ついつい」
嘘だったの?!『また』なの?!『つい』なのかよこんちくしょう!!一瞬でもシリアス展開を期待したあたしが馬鹿でしたよーだっ!
結局あたしと陽平とそのお母さんのコントは、椋が不気味な薬の乗った台車とともに部屋に入ってきて「病院では静かにするという規則DEATH★」と告げるまで続いた。